考え方の甘さと他人への想像力

考えが甘いといわれるが、当の本人が気が付いていないことがある。先日の流行語大賞で「上級国民」の言葉が話題に上がったが、その発端となった会見では当人はそんな意味を含んだことを言ったつもりはなかっただろう。その意味では、他人の立場で徹底的にものごとを考えることが考えの甘さを排すことになる。

他人の立場でものごとを考えるのはことの他難しい。想像力をつけろ、思いやりをもてなどとよく言うが、具体的にどうするかの部分は個人の自助努力に任されることが多い。子供のころの教育やこれまでの人生の積み重ねと言ってもなんの意味もない。今なにができるのだろうか。自分の立場に引き付けてものごとを考えるのは一つの方法だ。自分ならどう感じるかと検討することは習慣にしていい。

世の中で想像力のある人間というと、小説家が「一般国民」と比べて高いように思う。比喩など言葉の使い方ひとつをとっても常人の感覚では思い付かない発想がある。物語を作れるということ自体途方もないことだ。人ひとりの感情の移り変わりを刻銘に思い描けることが想像を絶する。とはいえ、「普通の人」もそんな高度なものが身近にあり、日常的に親しんでいるのも事実で、普段使っている日本語の使い方を多少変えれば小説も描けるのかなという気もする。いや、小説を書けるようになるのは言い過ぎかもしれない。他人が読んで面白い売り物を作るのは特殊技能だ。だが、自分の物語を作るのであれば可能だ。人生は偶然の連続で、それを他人が理解できるように構成し直す。そのことは多くの人が無意識にしていることだ。

コンビニの店長やディレクターは、コミュニケーションが命だ。だが、私にコミュ力はない。口を開けば常に人をいらつかせる。ものの言い方を知らないというのもあるが、根本的には相手への想像力に欠けるのが原因だ。実感としては、想像力を働かせて他人と関わるのは不可能ではないかと思うほどだ。なんとかなんですけどー、などと語尾を伸ばしてしまったり、あなたのせいでこの仕事はうまく回っていないみたいなことを知らず知らずのうちに言ってしまう。

そんな私が想像力を身につけ、他人と円滑にコミュニケーションをとれるようになれば、なにかしらのヒントになるはずだ。恥を捨てて、というか恥の感覚すらない非常識な私だが、仕事の記録、自分の物語をここに残していこうと思う。